視覚所有権の是非

しょっちゅうボーっとする。
特にポカポカ陽気の日は、断続的にボーっ、ボーっ、ボボーっ、
ボ!とする。

「なに、ボケーっとして!」
と、小学生低学年の時から頻繁に、母や先生から注意されたものだ。
授業と授業の間の5分休憩の時は決まって、席に座ったまま、机に立てた肘に頬を預けた状態で、ボヤーーーっと1点を見つめていた。
目の先は、グランド、遠くに見える山、青い空などの、いかにも心が洗われる風景ではない。目先は、真ん前に座っている、クラスメートのまるめた背中の中央であったり、3列前の机の横についている、給食袋をひっかける鉄であったりだった。
全く瞬きをせずに、某一角をぼんやり見続けるだけの行為は、非常に気持ち良い。仮眠(もしかすれば仮死)に近い状態であろう。
他のクラスメートは教室を走り回ったり、友達と至近距離なのに大声で会話をしたりしていたので、騒々しい。しかし、この周囲のざわめきが、全て混ざって一つのネで聴こえるようになったとき、騒音はG線上のアリアのごとく心地良い癒し系の曲となる。精神は至福に至り、机の横を走る一年坊主が我が上腕に当たった所で、ボケーーーーーが覚め無くなれば、達人の域である。
はたから私を見れば、「どこ見とーだ!」とツッコみたくなる表情であろう。ポカンと口を開ければ更に昇華できるのだが、あまりにマヌケな顔になるようなので、色気づいた時期にやめた。

大学時代に起こった出来事である。
ある昼休みの時、次の授業の教室で席に座った。その授業は大講義室で行われていた。簡単に単位がとれるせいか、受講者がぞくぞく入室してきていた。
椅子の背にもたれかかっていたら、いつしかボケーがやってきた。左斜め前の教卓下方を、焦点を合わさずにぼんやり見つめていた。
やがて、その視界に、赤いセーターが入ってきて、教卓が遮られた。私の目と、教卓の間にある席に、女性が座ったのである。その娘は、もう1人の女友達と横並びで座り、楽しそうに会話をしていた(ただし、その時はボーっとしているので、そこに女性がいて、会話しているという意識は私にはない)。
視界の中で、女性の右腕が上下に揺れていた。その揺れが、リズム良く穴を掘るボーリングの映像として視神経に取り込まれ、心地良さが増す。突然、その娘が後ろを振り向き、私の方を見た。
しかし、私はそれに気付かずに、相変わらずボーっと一点を見ていた。
するとその娘は、不審な顔でチラチラこちらを見始めた。
恐らく彼女は、私にジーっと凝視されているように感じたのだろう。彼女の猜疑心に気付いた時はもう遅し。彼女は私をいぶかしがりながら、隣りの友達と会話をしていた。
「なにあれ、ずっと私を見てる」「うっそー、超キモい。ストーカーじゃん!?」
彼女らの表情から察するに、このような会話が繰り広げられていたことだろう。
私はあわてて目を反らし、これ以上気持ち悪がられないように、彼女らの方向を二度と見ないように努めた。

しかし、落ち着いて考えてみると、だんだん腹が立ってきた。
彼女らに、以下の抗議をしたくなった。

「最初にあなたの座った場所を見ていたのは、僕ですよ。あなたが後から僕の視界に入ってきたんじゃないですか」

私は、彼女らが居ない時から、その場所を見ていたのである。人の視界に後から入ってきておいて、「あの人、私のことを見てるわ」なんて解釈をされる筋合いはないのだ。
例えば、電車の席は最初に座った人の席になる。それと同様に、
“ある空間は、それを最初に見ていた人の空間である”
とするべきである。
これを視覚所有権として、法律で制定して欲しいものである。