マット①

子供の頃から、耳栓を潰すのが好きだった。
潰しの最中は、マシュマロのようななんとも言えない柔い感触が指に吸い付く。また、ぺしゃんこになった耳栓がゆっくうりと元に戻る様は、あたかもスローライフを体現した生き物のようだった。反面、何回潰しても復活を遂げる生命力が、当時負け続けていた私の傷心を癒した。
実は当初は耳栓を、他者の悪口が聞こえないように耳に栓をする為に使用していた。しかし物理的に耳に蓋したところで意味は無く、心の声は聴こえてしまう。周囲の心内喧騒に怯えていた私は、耳栓に役立たずとやつあたり、強く摘み、押し潰したのだった。ところがソイツは、私の傷心が産んだ衝動を一身で受け止めた。それ以来、私は彼に敬意を払いつつ、潰しては眺めを半永久的に繰り返した。耳栓への愛着が強すぎて、その不可思議な素材に執着するようになり、化学者になった。心地良い素材を探求し、抜群の柔軟性と衝撃吸収力を兼ね備えたシリコンゴムを開発した。ソレでこしらえたマットの上には、卵を落としても割れなかった。

ある日、靴屋の男が訪ねてきた。
「先生が開発された衝撃緩和材は素晴らしいです。是非、弊社のスニーカーに使わさせて頂きたい」
かくして、私の素材が靴底に採用された。長時間歩いても脚が疲労せず、しかも足心地の良い”アルケエル”が発売された。
アルケエルは、人々にゆとり感を与えた。朝に通勤する東京人をも、景色を楽しむスローウォーカーにさせた。誰もがあくせくする必要はないと動揺しなくなった。殺伐さが消滅し、東京タワーをよじ登る者も居なくなった。

ある日、修学旅行中の小学生集団と遭遇した。
「アルケエルって良いよね」
「そうかあ?! 気持ちくなくてもいいとよ。ぼかあ速く走りたか」
私は帰宅後も、少年の言葉が引っ掛かっていた。確かに、アルケエルは歩く負担を減らす。しかし、速く走れることとは何らの関連性も無い。子供達は足が速くなりたい。鬼ごっこで鬼にはなりたくない。彼らの夢を叶えたいが、どうしたら良いものか……暗中模索したが、良い案が見付からなかった。

「アナタ、たまにはゆるりとしないと」
妻が耳栓を差し出してきた。
耳栓を手に取り、潰す。ところが、潰そうとしたが、その耳栓は不良品だったようで、若干硬く、潰してもすぐに元に戻った。

これだ。

私は即座に不良品を電子顕微鏡で観察した。
この弾み、この反発力を活かせば、走者の瞬発力に繋がる。

イケる。

こうして、”ハシレエル”が開発された。
ついでに、ローラーのようなモノも踵部分に付け、地を滑れるようにした。
商品は大当たりし、売れ行きは青天井。
とどまることを知らなかった。

ある日、水野さんが訪ねてきた。当時、水野さんは大手スポーズシューズメーカー営業二課の本部長。叩き上げで昇進した男だった。
「ハシレエルを競技用シューズに使いましょう」
水野さんが、言った。
そして時は、丁度オリンピック開催の年。
しかし、短距離走者が自らの肉体で出せるスピードの限界が来ていた。世界記録の壁は、都銀の金庫の扉よりも厚く、破れる者はもはや人類に居ない。
靴の進化だけが、頼みの綱だった。
寝る間も惜しみ、スポーツシューズのためのマット開発に取り組んだ。食事は一日にどんぐり5粒のみ。
血が出た。
骨が溶け始めた頃、マットが完成した。衝撃を吸収しつつ増幅して反発させるマット。
卵を落とすと、卵が割れずに、跳ねた。
こうして、ハシレエルが進化した”ハシレえる”が完成した。


オリンピック百メートル走決勝。
選手全員がハシレえるを履いていた。
果たして、世界新は出るだろうか。
スタートのピストルが鳴った。

選手達がトんだ。

結果は、予想を遥かに超えた。
なんと、かつての世界記録を二秒も縮めた。
ハシレえるの威力は絶大だった。
誰もが、靴が走っているように見えた。

皆、同着だった。




マット②へ行く】